逍遥録 -衒学城奇譚- -32ページ目

火浦功著「ニワトリはいつもハダシ」

ここ2・3日、まったく書評のブログっぽくないとのお叱りを、

あぶあぶと、小十郎君からいただきましたので、

ちょとルール違反ですけれど、本棚から抜きとった一冊を。

で、これ・・・

自分のダメさかげんに乾杯。 

 

財宝のありかを示す暗号を手に入れた小説家マコトが、

担当者とともに、冒険に巻き込まれる!

国マフィア、伝説の殺し屋、彼をつけねらう2組の殺し屋、

かつての名探偵の孫娘、入り乱れての大冒険活劇!!

マコトは財宝に辿りつけるのか!

謎の秘宝「銀の耳」の正体とは!!近日公開!!! 

 

・・・と、こう書けば、それなりのストーリのような気がするんですが。

実際の内容は、主人公のマコトは火浦功だし(一部の人にしかわからん)、

担当者は高柳良一だし(一部の人にしかわからん)、

殺し屋は肩にニワトリのせてるし、

そのニワトリは凶暴だし、

かつての名探偵はまぼろし探偵だし、

孫娘は流しの名探偵だし、

マコトは忍法使うし(大爆笑!)、

殺し屋のうち1組は○○が気にいっちゃうし、

もう1組は二度と日本にきたくないと思うし、

「銀の耳」の正体は○○○○だし、

・・・すばらしい!!

 

さて、火浦功といえば、

日本を代表するえすえふ作家であり、はぁどぼいるどの大家。

ボクたちの世代にとって、あの人の作品は「ばいぶる」です。

仕事しない伝説の作家、日本で一番未完のシリーズを抱えてる作家、

苦しまぎれにすぐ番外編書くので、本編より番外編が長い作家、

彼の偉業は、言葉では説明できません。

こら、笑うな、ボクだって吹き出しそうなの我慢してんだから。

「幸せの青い鳥」「お前が悪い!」「ガルディーン」「大冒険はお弁当持って」

「トリガーマン」「ハードボイルドでいこう」「高飛びレイク」など・・・

自分で遅筆というわりに、意外と書いてるんですね。

とにかく、読まんとわかりません。

ただし、はっきり云って、個人の好みでまったく評価は分かれます。

ボクたちの世代で「パトレイバー」や「究極超人あ~る」や出渕裕や

笠原弘子や富永み~なで涙した種族には直撃ものです。

あと、永野護と結婚した川村万梨阿とか塩沢兼人とか高田明美とか

「野生時代」とか原田知世とか植木等とか。

ああ、わけわからん。

レイモンド・カーヴァー著「ぼくが電話をかけている場所」

やりましたよー

まったく名前も知らない小説家の文庫を、

何の気なしに手にとってみて、何の気なしに買ってみて、

これがすごくいい作品で、幸せになることありませんか?

レイモンド・カーヴァーって米国の作家。

文学的素養のないボクは、まったく知らなかったのですが、

まさしくそれ。

 

短編集ですが、ボクはその中の

「足もとに流れる深い川」と、

「何もかもが彼にくっついていた」

の2編が気に入りました。

 

「足もとに流れる深い川」は、

主人公の夫が、友人たちと釣りに出かけ、

川で若い女性の死体を見つけます。

そこで彼らがとった行動が・・・

ラストの主人公のせりふが秀逸。

 

「何もかもが彼にくっついていた」も苦くて、

部屋の中にとり残されるような、孤独感を味わいます。

 

騒々しさのない、静かな、本当に静かな物語たちです。

その時はそうと気づかず、

やがて静かにゆっくりと喪失感が、

存在しないものの“空っぽさ”が、

淡く淡く、染み込んできます。

 

カーヴァーという作家が、

他にどのような作品を書いているかわかりませんが、

この短編集では、気づかない喪失が根底に流れているようです。

 

解説を読んでみると、プライベートをさらけ出さず、

短編と詩しか書かない作家という、ちょとミステリアスな作家です。

知名度も高くなく、入手もむずかしいらしいのですが、

70年代から活躍しているようだから、

少し掘り下げて読み漁ってみようか、楽しみです。

知らなくって残念だったけど、知ることができて幸せ。

 

評価:★★★★★

 

文句なし!

180万年前のヒト

グルジアでの遺跡で、今から180万年前の、

原人の頭蓋骨が発掘されました。

この頭蓋骨は歯が全部、ぬけおちてしまってたそうです。

原因は高齢か、病気でしょうか?

当時の食糧事情は、肉食中心だったと考えられており、

この状態で食事をすることは不可能だそうです。

獣でもそうなってしまったら、死を待つばかりですが、

この人物はその状態で数年生きたようです。

どうやって?

 

まず考えられるのは、実は肉食ばかりでなく、

柔らかい、あるいは植物中心の食生活だった可能性です。

これだと、これまでの原人の生活習性の定説は、覆ります。

もうひとつは、仲間が食事を柔らかくして、

彼(彼女?)に与えていた可能性です。

もしかしたら、噛み砕いて与えていたのかもしれませんね。

云ってみれば、介護の始まりです。

 

ボクとしては、食事が実は柔らかかったというよりも、

弱いものをみんなでいたわっていたと考えるほうが、素敵ですね。

そうだといいのに。

 

過酷な環境の中、食べれなくなった老人や病人は

見捨ててしまえば、まわりの者は楽なはずです。

それでも、病気や老人をいたわってた生活が、あったのでしょうか?

すでにそのころから、思いやりが生まれていたのでしょうか?

 

180万年前のヒトにできて、

ボクたちにできないって道理はないですね。

なんとコガネムシなどの糞だった!

古墳の石室の中から、3~8㎜ほどの謎の土粒が出土します。

これは「米粒状土製品」「擬似米」と呼ばれ、

古墳時代、穀豊穣や子孫繁栄を願う儀式に、

米の代用品としてまいたものと推測されていましたが。

 

昆虫の専門家が鑑定したところ、これは・・・

 

なんとコガネムシなどの糞だった!

 

笑い話だよー

もうちっと、パリッとしようぜ、考古学者。

自分たちの殻の中だけで研究する時代は、終わってんだぜ。

理化学的な測定法も、進歩してんだからさ。

 

っていう、ハナシ。

久しぶりに笑ってしまった。

森 博嗣著「Φは壊れたね」

ご存知森ミステリの、新シリーズ開始ということです。

前シリーズの主人公たちは、ほとんど顔をみせず、

若い学生たちによる謎解きです。この形式が定着するのかな?

 

密室で宙吊り死体が発見され、

なぜか死体発見の様子が、ヴィデオに撮影されていました。

崩れそうで崩れない、微妙な密室の鍵を、はたして誰が開錠するのか?

 

さて、森 博嗣と云えば、

最高傑作「すべてがFになる」で鮮烈デビュー。

その後、次々とロジカルなミステリを世に送っていますが、

残念なことに、そして幸いなことに、森 博嗣自身、

このデビュー作を超えてはいないと思います。

 

「すべてがFになる」の衝撃はすさまじかったですね。

これを読んで、ミステリ作家になるのをあきらめた者が、

全国で2000人はいるはずです(衒学城調べ)。

 

推理ゲームのための推理ゲーム。

ミステリのためのミステリ。

ロジックのためのロジック。

これらがいかに読者に媚びたものであるか、浮き彫りになり、

新たな地平が広がった作品です。

奇しくも、同時期に世に出た西澤保彦と並んで、

従来のミステリの概念を破壊したと、ボクは考えています。

 

評価:★★☆☆☆

 

で、さんざん吹いといて、星ふたつですかぁ?

だから「すべてがFになる」という基準が高すぎるんですって!

ステゾー旅立つ

3ヶ月ほど前、仕事から帰ってきて、コタツに脚を突っ込んだら

「・・・ん?」中に猫が入ってました。

あ、生きてるヤツね。

ウチは5匹の猫と、不特定多数のノラが、始終出入りしとりますので、

別に猫は珍しくないんですが、ノラで手にかかるヤツァ、あまりいません。

コタツからずるずると引っ張り出してみると、みたことないノラ猫。

ぐったりとして、左の後ろ脚がブラブラ。どうやら骨折しとるようです。

 「・・・ウチは、猫の緊急避難所ではございません」

と云ってみたのですが、 帰ろうとしません。

なんてこったい・・・

仕方ないので、近くの動物病院に連れていくと、

やはり事故にあったらしくって、ウチに避難してきたようです。

しかも横隔膜にも傷が入ってるらしく、かなり危険な状況。

先生:「どうしますか?手術しますか?」

せんせぇ・・・それ、ウチの猫じゃないんですけどぉ・・・

 ・・・即入院させました。

 

 退院してから2ヶ月。ステゾーと命名。

ギプスがとれないように、2階の1部屋に閉じ込めてたら、

これが発情期のため一日中鳴いて、うるさい、うるさい。

横隔膜が傷ついてるので、麻酔をかけるとショックで死んでしまうため、

避妊手術ができないそうです。脚の手術は、死んで元々でやりました。

だからその、なんだ・・・子孫を遺そうとするモニョモニョな行為は、

したくてしたくてたまらないのに、こんな所に閉じ込められて、そりゃもう、

気が狂いそうになる気持ちもわからんでもないですね。

うーむ、男としてちょいとこれはキツイよね・・・

おまけにダンボールはビリビリに破くは、あちこちにマーキングするはで、

なんでこんなヤツ、助けたんだろと腹が立つ想いでした。

 

さて、で、昨日をもって、脚もだいぶよくなりましたので、退院とあいなりました。

オス猫だから、きっと遠くへ行ってしまって、もう二度と会うことはないでしょう。

脚も結局、引きずったまま、完治はしないでしょう。

これからはノラ猫として、過酷な生活が待っていると思います。

もしかしたら、すぐにショックで死んでしまうかもしれません。

避妊もせずにノラ猫を治療し、また放つということ、

無責任だと思われる人も、いるかもしれませんね。

飼おうと思えば、開いてる部屋で飼うことはできます。

 

でも、それでもあえて、ボクたちはステゾーを放してやることにしました。

彼はきっと、傷ついた体を、ひと時休ませるためだけに、

ボクたちの家にやってきたのですから。

だから、無責任かもしれないし、命の保証はできないかもしれないけど、

彼が生きるべき場所に、もどしてやるのです。

もう二度と逢えないかもしれないけれど・・・

 

そしたら・・・

 

君・・・何でまだ家にいるんですか・・・?

家猫のつもりになって、どこにも、行きゃしねぇ!

ノラ猫の誇りはどこいったんじゃ!?

やれやれ・・・

 

Q:ところで、治療代、いくらかかったんですか?

A:・・・云うな!

K先生の部屋

博物館の三階のその部屋は宝箱だった。

古びた木製の階段をのぼり、ドアに開けると、
天井までの本棚と、並んだたくさんの書籍に眼を奪われる。
右手にはK先生の書斎机があり、そこに先生はいつも、
図書館を背にするかたちで座していた。

本棚には、先生にとって思い出の品であろうか、
さまざまな品が、ほどよい雑駁さで並んでいた。
それはシャーレに入った古い昔の米やら、中国の兵馬俑のレプリカやら、
どこかの国の奇怪な面であったりして、
きっとこれらは、先生の長い研究生活の中、
自然とこの小さな部屋に集まってきたものであろう。

海方向に一面に開けた窓の外は、風が木々の梢を揺らし、
わずかにみえる海は時には夏の紺碧、時には冬のにび色に染み、
かすかに潮の薫りすら、ただよってきそうだった。

学生時代の私たちは、用もないのに、よく先生の部屋を訪れたものだが、
私たちが在学していたころ、先生はすでに退官され、
非常勤として教壇に立たれており、
お身体の調子もあまりよくなく、学生と接する機会も、自然と限られていた。
しかしその中で先生は、世間話ともつかぬ、
私たちの話を、穏やかに笑いながら聴いてくださり、
またご自分の話もよくされた。

かつて体験された発掘の話。H遺跡やA遺跡、
特にY遺跡での日仏合同調査は思い出が深いらしく、
フランスの学者B氏との交歓は、何度も話された。
学史の中でしかお目にかかれない、先達たちの物語は、
そのまま先生が体験してこられた、
50年以上にわたる、九州での考古学史そのものであった。
海外での旅行体験。昔日の大学の思い出。
ゆっくりと丁寧に、うなずきかけるように訥々と語る、
独特の口調で紡ぎ出される世界は、
私たちにとって、まだみぬ未知の世界だった。

今考えると、当時の先生は多くの学生を、発掘の世界に送り出した後、
もはや教育者としての責任に、さほどとらわれることなく、
駘蕩の域に悠々と、足をかけておられた時期ではなかったか。
その様は研究者や教育者というより、孫と語り合う夫子のごとき風格で、
私たちの未熟ともいえない会話自体を、
楽しんでおられたのではないかと思う。

しかし私は、できの悪い学生で、ずいぶんと怒られたものだ。
卒業して数年、発掘のバイトと臨時の仕事をくり返していたが、
先生とお会いすると、じろりとかなり厳しい眼で、
口癖のように「キミはまだふらふらしとるのかね」とやられたものだった。

私が何とか就職が決まり、そのことを報告した時は、
ああ、まあやっとこのデキのワルイのが、
何とかなったか、と思われただろうが、
「よくやった。それはよかった」
と嬉しそうに、何度もおっしゃてくれたことが忘れられない。
元来怠惰な質で、先生が叱ってくださったからこそ、
まがりなりに、今まで続いてきたのだと思っている。

私たちが卒業した翌年、K先生もまた大学を去り、
そしてその数年後、思いもよらないやり方で、
私たちの前から、永遠に姿を消した。

あの部屋は、今はもう私の思い出の中にしか残っていないが、
私が学ぶべきものが、そこには静かに眠っていたように思われ、
はるかに長い時間で隔てられた今でも、
想い返すと、あの濃密で豊饒なひとときが、
当時のまま、私の心によみがえってくる。

加藤登紀子著「青い月のバラード」

学生運動盛んなりしころ、知り合った二人、
加藤登紀子と藤本敏夫の魂の遍歴。
加藤登紀子から、夫である藤本敏夫へのラブレター・・・

なーんて、二人の酔っ払いの放浪記?ですね。
でも、堅苦しく受け止められるよりも、
こんな感じで読まれるほうが好きなんじゃないかな、あの二人。

加藤さんは歌。
藤本さんは学生運動、転じて農業。

別々の方向を見定め、悩み、苦しみ、笑い、泣き、
歩き続けた二人の歩みは、ゆるやかな時間をかけて、
やがて二人の物語として、収斂していき、
そして、やがて別離の時が訪れます。

加藤登紀子さんとは、一度だけいっしょにお酒を呑んだことがあります。
すばらしく頭のいい方で、酒の席で手まり唄のことについて話をしました。
「あんたがた、どこさ、肥後さ・・・」っていうあれです。
一編でファンになってしまいました。

心の中の泉に、淡く、硬く、輝く小さな宝石が沈んでいるような、
そんな彼女の生き方が、たまらなくまぶしいです。

評価:★★★★☆

小野重朗著「九州の民家」

資料館の展示資料を書くために購入したら、
上司が勝手に展示を変えると云い出しやがった。
クソヤロー・・・(ポツリ)

・・・ま、それはいいとして、読んでみたら、いいです。
これはすごい!いい本、買っちゃった。上司に感謝・・・はしないけどね。

九州地方の民家の研究書です。
普通、民家と云えば、遠野の曲がり家や、
世界遺産にも登録されている白川郷などの合掌造りなど有名ですけど、
その他にも地方独特の民家は存在してるのです。

へへー、皆にはわからんだろう。この貴重な内容。

っと、いうわけで、すまん。
この本は、別に読まなくてもいいです。これはボクだけのお楽しみ。
ただ、自慢したかっただけです。

ちなみに田舎の家で、屋根がトタンで葺かれているのを、
たまに見かけますけれど、
あれは、茅葺きの屋根にトタンをかぶせているだけなので、
剥いだら、昔のままの屋根になるかもしれません。
何でかっちゅうと、屋根が傷んでも、お金がないので、
しかたなくトタンをかぶせただけの可能性があるからです。
一方、小金持ちは家を立て替えてしまうことが多いので、
かえって残らないのです。

皆さんも田舎に行った時でも、探してみてください。
もっとも、これはすべてがそうではないので、トタンの屋根を見て
「あっ、貧乏だったんだ」などと云わんでください。
ぶん殴られますよ。

60年前、高校生であった一人の少女がつづった「日記」

これは出版物ではありません。
今から約60年前、高校生であった一人の少女がつづった「日記」を、
ボクが仕事の関係上、お借りして、眼を通したものです。
もちろん、このような場で公表することなどできませんので、
細かい内容はつづることはできません。

この少女は、敗戦の色濃い昭和20年、学徒動員で、
軍の飛行場で勤労奉仕をしており、その日々を書きとめています。
飛行場は爆撃にも逢いましたが、
幸いにも命を落とすことなく、現在も元気です。
ただし、もう芳紀あふるる少女ではなく、
すっかりお婆ちゃんになってしまいましたが。

当時貴重だったノートは、今はもう触れただけで、
ボロボロになってしまいそうですが、
17~8歳の、何の思惑もない少女がつづったこの日記は、
実にレアな彼女たちの心の内を知ることができ、
歴史の資料としても、きわめて価値が高いと思われます。

何より興味を引くのは、彼女たちは本当に日本が勝つと信じていたことです。
爆撃に逢ったり、沖縄の惨劇や、近畿や名古屋の爆撃のニュースに、
不安を感じたりしたことも、もちろんありましたが、
自分たちが頑張れば、きっとお国は勝つと信じていました。

今考えてみると、健気とでも云うべきでしょうが、
これが当時の多くの人々の、普遍的な意識だったのでしょうか?

「皇国の興廃、この一戦にあり」と、奮励努力しなければと誓ったこと。
同級生と競争のように、土嚢作りや砂利運搬をしたこと。
鹿児島から越してきた同級生から、薩摩弁を教わり、
「鹿児島の言葉は、おかしかねぇー」と笑いあったこと。
心がこもった仕事をしない同級生に腹立たしく思ったこと。
演芸会で恥ずかしかったけれど、特攻隊の歌を歌ったこと。
飛行場の整備を早く終わらせて、飛行機をいじりたくてたまらなかったこと。
褒賞金をもらって、お国のためにしたのに、
もらっていいのだろうかととまどったこと。
担任の先生が戦死したこと。
戦闘機の燃料に使う、松の油を採りに行ったこと。
久しぶりに食べた団子がおいしかったこと。

爆撃を受けた日の日記を、一部だけ書き出してみます。
「ブウブウという爆音が頭上にした。壕に飛び込む暇さへない。木の陰にかくれて見ていた」
「・・・見ていただけ。敵と云へども、ただ感心する。いういうとして行く。艦載機だらう、真っ黒い」
「・・・急降下。すごい、すごい、ものすごい地響き。真っ黒い煙がもうもうとあがる。恐ろしくてたまらない。とうとうこの○○飛行場をねらったのだ」
「かねてこれある事を豫期していたものの・・・機銃掃射もやっている様子。分廠はどうだらうか?何も手につかない」
「いよいよ九州が戦場になるかもしれない。度胸を落ち着けることが先ず第一だ」

これを、高校生であった少女が目撃したのです。

そして、8月15日の日記。
「はらわたのちぎれる思ひ。残念で残念でたまらない。ただただ涙が出るのみ。夢であって・・・夢でありますように・・・本当だらうか?」
「私たちの生きていく道が急になくなって、望みも何もなくなってしまった」
「耐へがたきを耐へ、忍びがたきを忍んで、大御心を安んじ奉らなければならない・・・」
「この前、班分けがこの間あったばかりで、張り切ってたのに、やっぱり私たちの力が足りなかったのだろうか?」
「考えれば考えるほど、『必勝』の言葉がうらめしくなってくる・・・もう少し、何故戦わないのだらう」
「・・・世界平和を目指してきたのも、今日この正午をもって、一先ず停止となったのだ」
「今、一人でも米英の奴等をやっつけたい。ぢだんだせずにゐられようか。げんこつでもあいつらに喰らわせてやりたい」
「まだ日本が勝つようにしか思えない」

これが当時、戦争の中に身を置いていた、
たった17~8歳の少女の言葉です・・・

2日後、学徒動員は解除され、
彼女たちの戦争は、本当に終わりました。