逍遥録 -衒学城奇譚- -31ページ目

樋口一葉著「にごりえ たけくらべ」

5000円札にもなった樋口一葉。初めて読んでみましたが・・・

さて、岩波文庫版「にごりえ・たけくらべ」

 

こういう時、岩波を買ってしまうあたり、

自分の隠れてる(いや別に隠しちゃいないけれど)

権威主義という代物の存在を、意識してしまいます。

でもいいのさ。ボクは文藝春秋でなかったら、買うから。

作家の皆さんー。文藝春秋でだけは書かないでくださいねー。

まかり間違ったら、被告として裁判出なきゃ、なんなくなるかもしんないですよ。

そん時、あの出版社は、かばっちゃくんないですよー。わっはっはっは

 

さて、軽いいかにも“風刺”じみた、個人の悪意は別として・・・

「にごりえ・たけくらべ」ですな。

 

はっきり云って、読みにくい!

以上!

 

・・・ちょい待ち!

え?いかんとですか?しょんなかねぇ。では気を取り直して。

 

まず「にごりえ」ですが、お力なる酌婦の、絶望と諦観。

ほんの瞬時の一面を、流麗な筆致で描きあげる。

しかし何とも尻切れトンボ。

もう1編の「たけくらべ」とくらべても、明らかに1枚も2枚も落ちます。

 

続いて「たけくらべ」。

「廻れば大門の見返り柳いと長けれど~」の出だしで有名。

美登里・信如・正太郎・長吉ら、思春期の少年少女たちを描いています。

雨中で、下駄の鼻緒が切れた信如に、端布を投げ出す美登里。

或る朝、格子門に差し入れられている、朝水仙の作り花。

うーん、名場面です。

ちなみにボクは、妙に評判の悪い長吉の男ッ振りが、

一番カッコいいと思いますけれど。

 

この「たけくらべ」については、多くの研究者が、

隠された性的な暗示を、読み取ろうとしているそうですが、

ボクは野暮なこたぁ、およしなさいと思いますね。

何となく、あるがまま愛でたくなる物語じゃあ、ないですか?

 

やはり読みにくいが、しかし、読後でしみじみと効いてくる文体ですね。

 

評価:★★☆☆☆

松下竜一著「松下竜一 その仕事20 記憶の闇」

一度は読んでみたかった松下竜一。GW記念に、いっちょ挑戦!

シリーズ中の本書、甲山事件のノンフィクション。


さて甲山事件とは、1974年、精薄児施設の2人の幼児が殺害された事件。

容疑は施設の保母にかけられ、彼女は殺人容疑として逮捕起訴され、

24年もの長い時間をかけて、その嫌疑をはらします。

彼女が疑われ、警察に、メディアに、世情の手によって、

“犯人”に仕立てあげられていく様子を、克明に解きほどいていきます。


確固たる大地に根を張っていながら、あくまで事後の記録者の立場を崩さず、

冷静に、しかしその奥に、熱く、硬く静かに燃える信念を持つ

松下竜一にしか、残せえない、強烈な事件の記録です。


本件の場合、物的証拠のなさ、動機の不在の中で、

警察による犯行時間の恣意的操作、“精薄児の証言”などによる根拠が、

彼女を“犯人”に仕立てあげるための材料とされました。


・・・そして誘導される彼女の“自白”。

薄れている彼女の“記憶”は、警察側の手で操作され、

取調室の密室の中、袋小路に追いこめられてしまいます。

本当のことを云っているだけの自分の行動が、ことごとく否定され、

「君の云うことは誰も信じないよ」と云われ、

「説明できない以上、君が犯人と思われてしかたないよ」と云われ、


“犯行時間に何をしていたか、証明できないなら、犯人である”


関係者がきわめて限定された、時空間の中でしか成立しないロジックを、

彼女は突き崩すことができず(警察側がそのように誘導)、

陥穽に堕ちこんでいきます。


取調室の中で被疑者は、自分の無罪を証明しなければなりません。

外出もできず、情報も閉ざされた空間で、自分の記憶のみを頼りに、

取り調べ官の問いに、反論しなければならないのです。

おそらく暴力や恫喝もあるでしょう。それが1日10時間も続くのです。

目隠しをされたまま、素手で、武器を持った敵との闘いを

強要されているようなものです。

どれほど困難で、苦痛に満ちたものか、

おそらく、体験してみなければわからないでしょう。


冷静に考えれば、その理屈の不合理性は指摘できますが、

犯行時間に、彼女の記憶の空白の時間をスライドさせて、

押しこめようとする操作が併用された場合、

恐るべきことに、彼女の証言は、一切否定されることになるのです。


これは逆方程式です。

式の方が一部空欄で、イコールの向こう側には答えが出ており、

その空白部分を当てはめていく方程式。

“犯罪”が式で、答えの部分が“彼女”。

すでに答えは出ています。後はきれいに方程式の空白部分を、埋めていく作業。

後のことですが、彼女に有利な証言をした者は、

偽証罪で逮捕されたり、裁判に出ないよう圧力をかけられたりしたそうです。


圧巻は、精薄児(適切な表現でしょうか?)の証言。

検察側・弁護側がともに、彼ら、彼女らに襲いかかる。

記憶もあやふやな、彼らの証言は、蝶のようにひらひらと舞い、

厳粛なはずの法律さえも、翻弄します。

全体の中で、この場面だけが、まるで狂った喜劇のように

(しかしこれは胸がしめつけられるような喜劇だ!)せまってきます。

何という法の残酷さ、1人の人間の“罪”を量るために費やされる酷薄さ!

その場面は、歪んで噴出した、事件の隠された真理の側面なのです。


免田事件、松山事件のように、冤罪事件は過去、そしてこれからも存在します。

警察機構・法律は無謬ではありません。

過ちを犯す可能性がある者たちによって、おこなわれる犯罪捜査。

失敗はありうることです。

しかし、その失敗を糊塗しないことこそが、本当に大切なことなのです。


松下竜一は記憶について、こう言及します。

「言葉の向こうに拡がる記憶の闇の不気味さに圧倒される」と。

決して遡ることのできない過去を“再構築”していく、犯罪捜査の過程で、

記憶の錯綜によって生み出される、この闇を打ちはらうことのできなかった

人たちのどれだけが、“罪人”として死んでいったのだろうかと、

慄然とさせられます。


繰り返されないため、松下竜一はこの記録を綴ったはずです。

今は亡き彼が望んだように、

これはボクたちが継承していかねばならない記録です。


附記

監修者山口泉によって、商業メディアについての考察がなされていますが、

これはボクが考え、言葉にしきれなかった想いと、ぴたりと重なっています。

冤罪が警察機構によってのみ、生み出されるのでは、決してありません。


評価:★★★★★

中島誠之助著「ニセモノ師たち」

骨董関係第2弾ー!

「なんとか鑑定団」でもおなじみ、ヒゲの中島先生の出番でございます。

プロの骨董屋が、自分の見地から骨董の世界や、美意識、

自分がかかわった贋作事件や、かつての凄腕の贋作の話をするのだから、

これがおもしろくないはずない。これはなかなか勇気のいることですよ。

いやいや、堪能させていただきました。

 

骨董の数は限られており、その数は破損などによって、

今後減りこそすれ、増えることはありません。

現代作家のモノは、現代のモノとして、ジャンルが確立されています。

骨董とはおよそ100年以上昔のモノを云いますが、

たとえどんな技術を以ってしても、100年以上昔に作られたモノを、

現在作り出すことはできないからです。

限られた数の骨董に、プロや数寄者が群がるのですから、

供給不足になるのは仕方ない。

当然、ヒトを騙してでも、利益をあげたいという者が出現します。

贋作師たちがあの手この手を使って、騙そうとする熱意。

人類の美術・芸術、そして骨董の歴史は、

そのまま贋作との闘いとの歴史とも云えるかもしれませんね。

世の中、ボクたちの想像のできない、スケールのでかい話があるものです。

 

ニセモノに引っかかる条件として

1.儲けようと思う

2.勉強不足

3.お金がある

という3つがあげられるそうです。

 

理由は、まあ何となくわかると思いますが、

勉強不足で物事をよく知らないくせに、欲で眼がくらみ、

なまじお金に余裕があるものだから、自分が購入するモノに対して、

ハングリーさが足りない、つまり真剣身が足らず、

眼が利かないということです。

 

あっはっはっは、こりゃ、何にでも当てはまるね。

数奇の心は結局、人間の心の縮図ですね。

 

最後の方で、中島さんが言及してますが、

いいモノにめぐり合う者は、偶然ではなく、必然であり、

自分の眼と脚で、自分の選定眼を鍛えた者、ということです。

自分の中に、高い基準を持っている者は、

結局、質の低いモノには惹かれないのです。

 

改めて、骨董の世界は奥が深いなと感じました。

魔物に魅入られるようなものですよ。

骨董の魅力とは、その闇、人間の尺度とは異なる速さで時間を閲してきた

澱のようなモノが、まとわりつき、染みこみ、

集める者、売り買いする者の区別なく、ヒトを魅了してやまないのです。

 

評価:★★★★☆

村田喜代子著「人が見たら蛙に化(な)れ」

何とも奇妙なこのタイトル。

骨董に明け暮れた男が、外出する時に、大事な壺や茶碗に

「人が見たら蛙に化(な)れ」と云ったという話から。

どんな値打ちのあるモノでも、

人によったら、小汚い壺や茶碗にすぎなかろうという、

価値を他人に知ってもらいたい気持ちと、

知られたくない気持ちが相反する表題。

 

舞台は九州一円。

骨董屋、掘り師(窯跡を盗掘する)、ハタ師(古民家の蔵をあさる)、

いずれも一筋縄ではいかない3人の主人公が、

三者三様の生業で、骨董の世界の地べたをはいずり回ります。

騒々しい都会の喧騒とは無縁の、九州の片田舎で、

土の匂いのする、か黒い薄暗がりを、

何やら怪しげな連中が駆け回りますが、
根暗さよりも、奇妙なコミカルさで、物語が展開していきます。

 

骨董の世界といえば、最近は漫画でも見られるし、

「なんとか鑑定団」とかいう番組も人気ですが、

あれに出てくるような何百万、何千万なんという品物は、

実際にボクたちの前には現れません。

(骨董屋は、1人金払いのいい客を捕まえときゃ、商売になるといいます)

男たちも数万、数十万というはした金のため右往左往し、

振り回され、掘り出し物に狂喜し、裏切られ、あざむき、出し抜こうとし、

時として自分たちが何のために骨董を扱っているのか、わからなくもなり、

その様は骨董という狂気に囚われた、囚人のようです。

その周りには同業者、ライバル、

さらに彼らに喰いつこうとする者たちが取り囲み、
物語の濃度を上げていきます。

 

最後に彼らは、痛烈なしっぺ返しを喰らいます。

これは彼らが悪事をもくろんだというわけでなく、

実際彼らは実に勤勉で、マメで、ある意味誠実です。

にもかかわらず、まるで運命が彼らをもてあそぶかのように、

骨董にたずさわる者、骨董に狂った者の

“業”のようなものにやられたとしか、云い様がないです。

 

しかし読了のさわやかさ、後味のよさは、意外なほど。

そのしっぺ返しすらも、強がって笑い飛ばし、

もりもりと乗り越えていくような、根の張った満足感をいただきました。

 

さて、ボクですが、考古学やってるもので、やはり古いモノが好き。

今住んでる家も、江戸時代の民家ですし。

その代わり、新しいモノには興味がない。

自分のできる範囲で、少しずつ骨董を楽しんでます。

ボクたちが購入するのは、実生活で使うモノばかり。

李朝時代の米びつは現役ですし、ヴィクトリア時代の椅子は台所。

結婚祝いにもらった茶杓用の古竹は、手洗い場のタオル掛け。

李朝の器台や伊万里の染付は普段使いです。

でもこれらは、全部自分たちで購入可能な金額のモノばかりで、

手の届かないモノはありません。

実際、焼き物でも、下手のものだったら、千円かそこらです。

何百人分もそろえる必要はないのですから。

 

ボクたちは、自分たちの手の届く範囲で、

身の丈にあった楽しみ方をしようと思っています。

これ、骨董についての、ボクたちの流儀。

身の丈にあわない贅沢は、ヒトの心を狂わせますよ。

 

評価:★★★★★

「エル・シド」

BSでやってた。

主演はチャールトン・ヘストン(「ベン・ハー」の人)と、

ソフィア・ローレン(「ひまわり」の人)。


11世紀のイベリア半島。ムーア人の侵略にさらされている

カステリィア王国(現スペイン)の騎士ロドリコは、

愛する人の父を殺して怨まれたり、

都市を賭けて隣国の騎士と闘ったり、

やっぱり愛する人と結婚したり、

王位継承にまきこまれたり、

そんでもって領地を取り上げられて追放されたり、

それでも気張って、ムーア人と戦ったりと、何かと大忙し。

損な性分だなあ。胃に穴が開きそうですよ。

ちなみに実在の人物だそうで、国を護った悲劇のヒーローといったところ。

エル・シドとは司令官とか大将とかいう意味らしいです。


軍隊の突撃シーンや、攻城シーンは圧巻!

チャールトン・ヘストンの油の乗り切った時期の作品ということで、

ベン・ハーにも匹敵する!とのことですが・・・

何なんでしょう、あのラストのへっぽこさは・・・


攻め寄せる圧倒的な兵力のムーア軍!

バレンシアに立てこもり、苦戦するロドリコたち。

しかし英雄ロドリコの胸には、先の先頭で受けた矢が深々と刺さっています。

駆けつけた王とのわだかまりも解け、愛する妻との別れもすませ、

死を覚悟し、突撃するロドリコ!

ただ国を救わんがため!

もう、イっちゃって、神がかりなってます。


そして・・・

何もしていないのに、白馬に乗った彼に逃げ惑うムーア兵。

戦場に倒れるムーア兵。

・・・彼は旗持って駆けぬけているだけなのに・・・

駆けてる彼の眼、完全にイっちゃってます。

あんなに強かったお前らはどこ行った!?

逃げようとする兵を留めようとして、ロドリコに跳ね飛ばされる、敵の大将。

それを後続の騎馬軍が踏み潰して、はい、これでおしまい。

・・・え!?


・・・なんじゃこりゃー!?


評価:★★☆☆☆


3時間観た自分が莫迦みたい。

星ふたつは、突撃シーンや、当時の風俗などが、

なかなかおもしろかったから。でも史実に忠実な保障はないよな、あいつらの場合。

中上健次著「十八歳、海へ」

まいったね、こういう生々しい感情をぶつけられてはね。


短編集です。ボクはその中の1編「愛のような」がいいですね。


ガールフレンドもおり、満たされているはずの主人公の部屋には、ペットがいる。

5本の指紋さえある、しなやかな指を持ち、やわらかい手の甲、そして手首。

まるで"女性”の“右手”のような“それ”は、自由にうごめき、はいまわり、

性器にからみつき、愛撫し、“男”を快楽に導く。

主人公は、そのペットに溺れ、奇妙に満たされ、

同時にまるで“女性”の“右手”のような形状に、戸惑い、恐れ、

もしかしたら、皆こっそり部屋に飼っているのかもしれないと、自己を弁護し、

しかし手放すこともできない。

ペットによる射精行為は、性欲の飽和状態を作り出し、

ガールフレンドとのセックスに対する飢えも、希薄になっています。


物語の中に、いつの間にやらすべりこんで、居座っているそのペット。

まるで女性の右手のような形、という奇妙な設定ですが、

さて、これはいかに解釈すべきでしょうか?

男性の自慰行為、すなわちマスターベーションを、

奇妙なペットがおこなうという・・・


これはマスターベーションの際、使用される男性の利き手を、

カリカチュアライズして、別に生命を与え、

快楽に溺れる側、快楽を与える側を、

第三者的視点で見ているのかな?


白濁した精液の放出という、実にシステマチックで、わかりやすい、

男性の絶頂をうながす、ひとときの律動(女性の身体なり、利き手なり)を、

皮肉り、「俺らのやってるこたぁ、しょせん、こんなもんさ!」

と、男性の自慰行為に対する、自嘲ですかね?


いや、そもそもこの珍妙なペットなる物体が、

そもそも実態を持って、存在しているのか?


うーん、なんなんだ、この体勢の悪い鍔迫り合いのような、不安定感は。


とにかく、主人公の不安が常に物語の根底に流れ、

同時に飽和状態が全体を、ひたひたとひたしています。


評価:★★☆☆☆

個人の趣味だからな、ボクはいまいち。


【註】

本日の書評には、性を強く連想させる“射精”だの“マスタ-ベーション”だの、

単語が“わざと”ちりばめられていますので、

このような表現に不快感を持たれる方は、お読みにならないでください。

・・・って、最初に書くだろー、こーゆーことは普通!

小川洋子著「沈黙博物館」

たくさんの書評で、ずいぶんと評判のいい小川洋子さん。

遅ればせながら、ボクも読んでみました。

 

小さなムラに降り立った博物館技師。

彼は、とある博物館を立ち上げるために招かれました。

その博物館とは、屋敷に住む老婆が、数十年にわたって集め続けた・・・

 

死人の形見。

 

生きていた人間を、最も鮮明に描き出す形見を公開する博物館。

世界に人が存在する限り、永遠に終わることのない収集。

老婆の娘を助手に、奇妙で、きしむような作業が続きます。

しかし、やがてそのきしみは、精妙なリズムを刻むようになり、

いくつかの不協和音も、静かな平穏に吸収されていき、

公開の日に間に合うよう、

終わりの時に間に合うよう、

物語は収斂していきます・・・

 

主人公の技師がアレとアレを、記録し、分類した瞬間、

“ぞくり・・・”ときました。

そして読了。

・・・ああ、そうか。これは“奉げられし物語”だったんだ。

 

さてさて、こまった。

掘り下げねばならない語り部が、また1人増えてしまった。

 

評価:★★★★★

ボクたちは、緩慢な枯死の中にあります

日曜日の衆院補欠選の結果を聞いて、

「ああ、そうか、そうだったんだ」

と、ここ数年の間、感じることはあっても、

うまく言葉にできなかったことを、ようやく得心しました。


日本人は倦みはじめています。


何に?


政治に、社会に、日常にです。

因習に、変革に、期待と、失望に。

長い間、不況と云われ、重苦しさを感じてすごしている日々。

借金、将来への不安、荒廃を感じさせる世情。

もう何年も囁かれ続けている、先の見えない現状。


自分たちの国を、未来を変えようとする動きは、ずっとあり続けています。

にも関わらず、過不足なく満たされたこんな豊かな国だから、

不安を抱えつつも、享楽は満たされ、

眼に見える形では実感できない、惰性の変革に、

失望し、苛立ち、前進することに疲れはじめたのです。

危機感はなく、崩壊は感じられず、枯死は静かにすすんでいきます。


だから、日本人は狎れたのです。現状にたゆたうことに。

そして、倦みはじめました。


ボクたちは、緩慢な枯死の中にあります。

ボクたちは、緩慢な枯死の中にあります。


この国に生きるボクたちは、現状に狎れ、倦んでいます。


だから・・・


とりあえず、

メシ喰って、本読んで、たっぷり寝て、自分を倦ませるな!

美しい日本の常識を再発見する会編「日本人は桜のことを何も知らない」

さてさて、日本でみられる桜の8割が、ソメイヨシノ1品種で占められているのを、ご存知ですか?

それもここ100年の間に植えられたソメイヨシノは、実はたった1本の、突然変異した樹から、接木によるクローン増殖した分身なのだ。

同じ種類で、子孫を残すことができない性質のためです。

 

あるいはサクラほど哀れな花は、この国にはないかもしれません。

慣れ親しまれたソメイヨシノの他は、成長が遅く、花も小さく、個性に富む山桜やしだれ桜は、人々から見向きもされません。 

でもボクは、誰に媚びることなく、山桜やしだれ桜の方が好きですけどね。

 

そのソメイヨシノすら、開花の時期の数週間をのぞいて、誰も見ることもありません。

ヒマラヤ地方を原産地とし、日本には3万年前に、渡来したと云われています。その後、大陸的な梅に主役の座を明け渡しますが、日本文化が爛熟する平安時代には、再び日本人の花として、人々の心に咲き誇ります。

明治維新のころは、封建主義の象徴として伐採され、軍国主義のころは、散り様の潔さから、軍人の象徴としてあつかわれ、敗戦後は軍国主義の象徴として、また伐採されるという憂き目にあうのです。

そして、今では観光振興の道具のように、扱われるばかりのこともあります。

ソメイヨシノの寿命は60年と云われ、戦後に植樹された各地の桜は、死に面しているそうです。

人間の都合によって生まれ、

人間の都合によってまつりあげられ、

人間の都合によって死んでいくのでしょうか?

だから今だけは、この城の中でだけは、

一夜の酔いに、心まかせて、一献。

 

たれそ見る それでも一人 山桜    呑月

カズオ・イシグロ著「日の名残り」

2冊続けて、大当たり。

見た瞬間、いい匂いがぷんぷんしてましたよ、この本。

中も見ずに、購入。

短い自動車旅行に出た老執事が、旅の途中、

在の情景と重ねて、自らの過去を逍遥します。

古きイギリスの高潔な紳士に仕え、

その肩越しに歴史が動くのを体感し、

そしてなお、驚くべきことに、いかなる場合に於いても、

彼は不動の、一個の彫像であったのです。

すべては鮮やかで、見事に整理された箱庭のように、

読み手がその中に織り込まれていくような、充足感。

これは身をゆだねてよい物語だ。

どこの辿りつくのか、不安も哀しみも、すべて抱えられて、

ボクたちは終着点まで、いざなわれます。

それにしても、この執事、おもしろい。

まるで誰かのために(彼も文中で語るように)、

執事という役割を演じているかのようだ。

そしてそれがもう彼自身の“個”として、

彼自身を形成しています。

不快ではないです。

ボクはきっと、彼に出会っても、生まれた日から、

執事として生きてきたと、思ってしまうんじゃないかな?

蛇足ですが、この作者、日本人です。

だし5歳で家族で、英国に移住しており、

日本語はほとんどしゃべれないとのことです。

もうすでに日本人とは云えないと思うので、

そう表記するのは、ちょとためらいます。

このような、生まれついて英国人でも書けないような物語を、

彼が書くという不思議。

そしてそれがボクの感じ方と、ぴたりとはまった不思議。

ラスト近くのミス・ケントンの、夫に対する感情の吐露、

執事がしぼりだすような喪失の哀しみ、

そして、アメリカ人の新主人のための、彼の最後の決心。

すべては彼方へと過ぎ去ってしまいましたが、

それだけに硬質に淡く輝く、一編の静謐に満ちた物語で、

あまりにも、あまりにも・・・

評価:★★★★★ 絶品!