小沢幹事長起訴相当?――検察審査会は人民裁判や魔女裁判を望んでいるのか? | 逍遥録 -衒学城奇譚-

小沢幹事長起訴相当?――検察審査会は人民裁判や魔女裁判を望んでいるのか?

小沢幹事長が、検察審査会で「起訴相当」との判断が出された。

今回の件の記事をいくつか読むと、審査会では「政治不信が高まっており市民目線からは許し難い。裁判所で真実と責任の所在を明らかにすべきだ」との意見で、小沢幹事長を起訴すべきだと告発しているようだ。

ボクとしては、いささか驚いた。


この件については検察――すなわちこの国で最高レベルの法律のプロが、小沢幹事長の犯罪を証明するコトは困難だと断定している。

強制捜査もおこない、本人に尋問もし、何ヶ月も捜査をおこなった。

検察は必ずしも正義ではないが、それでも仮にも犯罪捜査のプロなのだ。

それもこの件に関しては、案件そのものが、かなりムリめにもかかわらず、どのような手段を以ってしても……の意気込みが見てとれる。

ソレでもなお“法的”に罪は問えない……と判断しているのだ。

その上で、どのように見直す余地があるのか?


誤解がないように云っておくが、小沢幹事長が金にやましいトコロがないなどとは思わない。

政治家ならば、後ろぐらい銭の流れのひとつやふたつは抱えている。

それは小沢だけでなく鳩山首相だろうが、もちろん自公の議員だろうが、共産党の議員であろうと同様だ。

偽悪的に云っているのではなく、権力のあるトコロ、金は集まり、ソレはきれいなモノ、醜いモノ様々なのである。


しかし、そーゆーコトは少なくとも“法”とは別の見解なのだ。

あからさまに云って、風聞ややっかみの類だ。

“罪”はソレが明らかになり、犯したとはっきりとわかる形で証明されて、初めて“罪”なのだ。

ソレを道義的な問題にすり代えるからおかしくなっていくのだ。


告発されても、証明されないかぎり、ヒトを犯罪者扱いしてはいけない。

風聞でヒトを罪人扱いされるコトが赦されるのなら、ソレは恐ろしい世界である。

だがこの国では、訴えられたらその時点で社会的な犯罪者として既定される。

グレイをシロと認識できない土壌がある。

いかに裁判で無罪となっても、グレィな部分はあくまで“クロ”として認識され、罪を犯していようがいまいが人生を棒に振る。

ヒトを罪人扱いするコトの責任の大きさは忘れないでほしい。


無論“法”では裁けない微妙な機微はあるし、硬直化した司直の視点は狭くて、現実味にとぼしいと感じる部分はあるだろう。

だがこの検察審査会自体が、どのような視線で“法”の不備を補完しているのだろうか?

感情論なのか?

よくわからない。

そもそもこの審査会とは、検察の調査の不備を判断するものではないのか?

ならば何ヶ月もかけた操作がおかしいと批判されるべきは、検察ではないのか?

素人が追求できる程度の捜査の瑕疵を、検察が見逃していたというコトだろ?

それがいつの間にか、審査員が小沢幹事長の罪の有無を判断する場となっている。

おかしいのではないか?


まったくの素人が“市民目線”とやらで、モノゴトを判断している、ヒトを断罪する。

政治不信が高まっている……とはどのような意味だろうか?

政治不信が高まっているから、推定有罪なのか?訴えるべきなのか?

市民目線で赦しがたい?

市民目線――素人の目線で、どのような罪が見えたのだ?

法律のプロが見ても立証できないのに、素人がどのような罪を見てとることができたのだ?

正直云って、意味がわからない。

不思議だ。

何かこう、すんげぇ怪しいって?

だから訴えられて当然?

そりゃあんまりムチャクチャだろうよ?

庶民の目線で……市民感情で赦せない……などの判断基準は、もはや“法”に則っての判断ではない。

怪しいから訴えろってレベルでハナシをしてどうする?

縛られた被告を取り囲んで「罪を自白しろ!」「お前がやったに決まっている!」と弾劾したいのか?

人民裁判か魔女裁判を望んでいるのか?


この件については、わざとだろうと思うのだが、秘書のコトまでふくめて複数のハナシが錯綜し、ごちゃごちゃに解釈され、正直云ってよく理解できない。

ネットで大体の流れを把握しているボクですら、イマイチよくわからん。

”民主党幹事長のオザワが、何かこう、国民の感情を無視して、たっぷりと不法な金をためこんでいやがる”っていびつな情報に流されてしまいそうだ。

それほど常軌を逸した(某自称全国紙では、あきらかに意図的な捏造報道までおこなわれた)報道も、なかなかにないのではないかと、むしろ感心をする。

コレがまぁネットの中でしか生きられず、世間をみようとしないアレな連中が情弱ってバカにしているヒトたちにすれば、もっと強烈にネガティブな印象がすりこまれたのではないかと考える。

裁判員制度もそうだが、法律のプロではない市民は、いとも簡単にメディアの情報や風聞、さらには法律とは無縁の感覚的な判断におちいるだろう。

検察審査会に選ばれたのは、どのような人物であろうか?

まぁそれなりに良識もある、判断能力もある人物であろうと思う。

しかしそんな人物であろうと「小沢、クロ」の印象操作から逃れられなかったのだろうか?

まさにメディアの魔力であろう。

(訴えた連中は、不思議なコトに表には出ないが、つまりアレな連中とのウワサもある。だとしたら、結局は政治的にゆがんだハナシである)

しかも彼らは、検察が準備した資料で判断しているのだろう。

そんな一方的な資料のみを読んで、公正な判断ができるのだろうか?


少なくともこの件については、ダメもとってカンジのようだ。

別にきちんと法的な決着をつけるコトは必要ない。

ある期間まで小沢幹事長、ひいては民主党をこけ落すプロパガンダとなればそれで充分って意識が、検察ならびにメディアにはあるような気がする(産経あたりはね……まぁとにかくヒドイわ)。

少なくともこの件に関しては、法律とはまったく別の力学が働いていると見てよいだろう。

その一方の力点に、必死こいてゆがんだ感覚を積み重ねようとするモノがいる。

ソイツらが自惚れて、自分たちのコトを何て云っているかはともかくとして……

ま、とにかくこれから裁判をすすめたいのであれば、メディアを使って“市民目線での有罪判決”を出せるかどうかが問題になるのかね?

やれやれ、世も末だね。